”ゴルフ”に11年の感謝を込めて

家族の話で少し長文になります。

お陰様で、次男が3月25日、大学を無事に卒業しました。

photo:大好きな写真 太平洋御殿場

妊娠・出産を経験する女性は、約40週の時間をかけて母親になっていくと聞きますが、男はどうしたら父親になれるのでしょう。そこで、私が考えたのは、ありきたりですがスポーツを通して心を育むことができたら、またスポーツを通して同じ時間を過ごせたら、どこかでどこかで父親になれるのではないか...。野球やサッカーもすすめましたが、気が進まないようで、テニスから、自分が通うゴルフスクールに入ります。4年生でした。

すると...

「この子はセンスあるねえ」

「将来はプロだな、楽しみだね」

よくある話ですが親は本気にします(笑)、周囲の言葉を鵜呑みにしてしまうのも、かなり親バカですが(笑)、ゴルフは一生続けられるし、家族でもできるので、少し気軽な思いで始めてみました。


【スクールは週2回】

年1回アメリカ西海岸の合宿など、コーチに様々な経験をさせていただくものの、日常は練習場に向かう毎日でした。団体スポーツのように仲間と競い会うわけでもなく、目標がスコアを縮めるだけでは、なかなかモチベーション維持が難しいように見えます。1年半が過ぎようとしていた頃。

「試合に出てみるのはどうか」

1年目、父兄仲間からジュニア試合情報を教えてもらい、モチベーションアップの為に試合に出場することにしたんです。静岡県裾野で開催する「ゴルフダイジェストジャパンジュニアカップ」。

【5年生】

84名出場していた本選出場の選考会(いわゆる予選)で、3名の棄権者が出たので、スコアは 62・63=125回(+53) の80位T、なんと最下位でのスタートでした。こんなに頑張ってても、選考会(予選会)も通らないんだ...。


「これは大変だ。」


スコアはともかく、猛暑の中、顔を真っ赤かにしてバックを担ぎ、最終ホールに戻ってきた海里、完走したこと、スコアを間違えなく数えたこと、「よく頑張ったね」と汗だくな息子を沢山褒めた思い出があります。ゴルフを知らない家内も、あんなに練習に行っているのに...と涙を浮かべていました。

ところがです、同じ11歳の優勝者はアンダーパーだったこと。「これは大変だ!えらい世界に来てしまった」と、今でも忘れられない大会になっています。

試合に出るようになり、一番驚いたのは、ジュニアはバックを担いで回らなければいけないこと。身長が伸びる大切な時期に、15キロ〜なかには20キロ近くのバックを担ぐ子もいます。「こういうことに耐えられる体じゃないといけない」などと馬鹿げた事を言われる方もいましたが、飲み物も準備した重たいバックを担いぐのが当たり前でした。


またどの競技にもありますが、成長が早い子は、早い時期に飛距離を確保できます。飛距離も欲しい、安定性も欲しい、日本ならスイングも綺麗な方がいい...しかし身体が出来れば、どこかで変わるはずで、無理をさせるスポーツではないと当時から考えていました。

スコアの差は大きくありましたが、あまり気にせず、楽しみに待つことにしていました。


翌年【6年生】

同じく選考会から再挑戦します。

体はいずれできる。

パターとアプローチを徹底的にやればいい。そう考えると、家内に断りなく、庭の植木を全て抜きさり、芝を張ります。芝刈り機も準備しあとは練習いただくだけ(笑)自宅で練習できるように環境を整えてみます。

しかし、娘は芝で遊べるからOKとして、家内に不評でした。当時はすでに接骨院の仕事に加え、トレーナー業を並行していたので、日曜日もほとんど家にいないわたし。「庭の手入れは誰の仕事?」となるわけで、すぐに反省の草むしりです。練習は外で、家は安らぎの場であっていいのではないか...家内にはよく言われたことです。

土曜日の夕方・日曜日に、近所のショートコースに2人で通いました。普段はバスや電車または、家内が送迎します。一人で練習場・スクールに行った日は、仕事の帰りに車で迎えに行く毎日になりました。「ジュニアゴルファーを育てるには当然です」とコーチからも言われていたのですが、我が子以外に職場の研修生を何人も抱えながら、子供がたくさんいるようなもので、楽しさもありますが、時間の管理が、なかなか大変な時期でありました。


1年の成長が...

神様は見ています。


42・50=92 回 

上位35人までの通過で、なんと35位のギリギリでしたが、無事に通過。

感動の本戦(1日競技)に出場しました。本戦では47・49=96回、72人中、70位という成績でしたが、33打の短縮は、努力の賜物です。優勝者スコアは73でしたから、この時点で23打差。5年生の選考会では、TOPと54打差あったものが、1年間で半分にまで縮まったのです。

「少しづつ縮めていけたら楽しいじゃん」

ゴルフはより少ない数で競うスポーツですが、アンダーは無限でもないので、どこかで追いつくはず。そう信じて日々練習に励みます。

6年生の終わり頃から、日本ジュニアゴルフ協会(JJGA)が主催する予選会に挑戦します。

やはり予選は通りたい。そう強く願うのは親の気持ち。

成長は海里の性格のように緩やか・穏やかでした。親としては「なんでだろう」「どうして予選通過できないのか」そんな思いが時々巡るわけですが、本人は至ってマイペース。ゴルフにはこのマイペースがとても大切みたいです。


【中学1年生】

余談ですが...選考会に出場しない選手がいることに初めて気がつきます。どうやら夏になる前に選考会に似た別の予選会があるというのです。ネットで探し募集要項を細かく見ないとわからないようなものですが、父兄たちが調べ上げていたんです。我が家の場合、この手の情報に残念ながら疎く、情報を共有いただけるようになるまで時間を要してしまいました。


夏のGD大会選考会を真ん中くらいの位置で通過します。

本戦は2日間 82・79 =161 回。1ラウンドのスコアは確実に縮まっていました。「2日目は70台も出た!」。ただ中学になると1年生と3年生の差は距離でも広がり、優勝者との差は22打差。縮まりそうで縮まらない。2日間70台で回ることが次の目標です。

海里も結構頑張っているのに、周囲はそれ以上に上手い!!

お父さんが上手いから?

コーチがいいの?

どれぐらいラウンドをしているの?

かなり知りたくなってきます。

海里は殆ど1回/月。

驚くことに、週2・3回はラウンドしているジュニアもいると、これでは叶わない...。


この頃は、石川遼くんの登場もあってか、ジュニアゴルファー過渡期と言われていました。同時にジュニアゴルファーの仲間が県内や東京に増えていきます。みんなは、どんな練習をしているのか、”何が違うんだろう”。毎週週末は都内から千葉県に通っているジュニアもいました。東京も神奈川もジュニアゴルファーが育つ環境としては、かなり厳しいので、他県に遠征しているのでした。移動時間はやむを得ないとしても、1日中球を打ち、ショートコースを回っても1000円から1500円くらいで練習環境を与えてくれる場所は大変貴重で、海里も一緒に通うようになります。


さて、JJGA試合エントリーは、人気アーチストのチケットでも取るように、申し込み開始時間にFAXは繋がらなくなるほど。試合に出るためのエントリーは親の役目で、前哨戦ばりに小さな戦いがありました(今はわかりません笑)

ロレックス・タイガー・カルビーと大手企業が、冠スポンサーになっていただき開催されていました。年5試合くらいあり、予選会は全国各地で行われます。現在プロで活躍されている選手たちも、この試合に出ていた方は非常に多く、日本代表に選抜されると赤いJAPANバックがもらえるようで、一つのステイタスになっていたように見えます。

決勝に出れる条件は、予選会優勝者と全国スコアランキングの上位者が出場できるシステムでした。

関東地方のジュニアゴルファーはたいへん多く、予選会で優勝するのはアンダーパー当たり前。海里には優勝が訪れず、そこになかなかたどり着けない日々が続きます。予選を通るために仙台、広島・岡山・三重・大阪に出向き挑戦するも、練習ラウンドなしの一発勝負では、なかなかいい結果に結びつきませんでした。仕事が終わってそのまま子供を車に乗せて、仙台まで走り、試合の合間に睡眠をとる、そのままトンボ帰りもありましたが、牛タンをたらふく食べたいい思い出はありますが(笑)、試合の結果にはつながりませんでした。

移動中、「お父さん眠くなっちゃうから、少し話しながら行こう」そういっても、試合で疲れ、満腹の海里は5分で爆睡です。


移動中、車の中で ”全ホールの番手をお父さんに話、1日の報告”しているというジュニアの話を聞いたことがありました。勿論我が家の海里くんは寝てしまうので、全てのホールを話したことはなかったと思います。これは、経験により、同じミスを繰り返さないとか、または成功体験を重ねるというような、ゴルフ社会性を身につけることなのかもしれませんが、今でいう右脳・左脳の働きでいうと、感覚でやっているタイプの子供にはマイナス面もあるかもしれません...いろんなことを考えて送迎をしていました。


【中学2年生 春】

ロレックスジュニアゴルフチャンピオンシップで、初めて決勝大会に出れます。

ゴールデンウィークの時期だったとおもいます。会場は群馬県サンコー72。駅前に宿を取り家族で応援に行きます。当時娘は6歳。ゴルフの試合は静かにしていないければいけない瞬間があり、これが幼少にはなかなかなかなか厳しい場所になります。

予選会は子供達だけで、静かにスタートしていきますが、全国決勝ではティーグランドも広告で囲われていて、華々しい雰囲気。選手名がコールされたときには、感動で恥ずかしながら涙が溢れました。

「こんないいものなんだ...」

全国の精鋭が集まる決勝大会初戦は、思うような結果ではありませんでしたが、「またこういう場所に来よう。」そこから何度か全国決勝大会に出れるようになっていきます。

そして

【中学校3年生の春】

飛距離が急激に伸びます。アンダーパーが頻繁に出るようになります。バックティーからの試合もそろそろ始めていこう...。

高校に入る前に、大人の大会に挑戦してみることになり、関東アマチュアゴルフ選手権の予選にエントリー。千葉県平川カントリーでの予選をギリギリ通過し、関東ブロック決勝の浜野ゴルフクラブに駒を進めます。


関東ブロック決勝:スタートホールでティーショットを左に曲げます。予想カットラインが2オーバーくらいでないかと言われていたので、今日はダメかなと...。

当時の願掛けは、スタートしたらゴルフ場にいないこと。

「頑張れーって」親の念がビンビン飛んでしまうのではないか(笑)と思っていたんです。親はただひたすらに待つだけなので、ハーフターンでも目を合わさず会話はもちろんしません。

18ホールをそろそろ終えるくらいだろうと、最終ホール(この日はINスタート)9番208yのショート。グリーン周りの木に隠れながらソーっとのぞいたつもりが、ティーグランドに立った次男から見えてしまったみたいなんです。

プロゴルファーあるあるですが、試合中、観戦している家族が、選手から見えないように木の後ろに隠れていても、「どこにいても顔が浮き立って見える」といいます。そうとは知らず隠れている私に対し、ジャンプしながら手を振るんです。まだ最終ホールが残っているにも関わらず、「何をしているんだ!」それぐらい嬉しかったんでしょう。前半2オーバーでも諦めず 34・38=72の9位Tでブロック決勝を通過しました。

手が震えました。

家内に早く報告したいところでしたが、先ずは車の中で思いっきり泣かしてもらったんです。

関東アマチュア選手権決勝(狭山GC)に出場です。

160人の出場中、中学生の出場は、3人だけだったと思います。この大会の結果は2打足りず75位Tで終わりましたが、予選通過ができなかった海里のドライバー飛距離は285yを超えていました。この調子なら日本アマに行ける!! そう思って望んでいたものの、2打及ばず苦い思いをしました。しかし日々成長していく姿が楽しかった時期でもあります。

同年夏、関東ジュニアゴルフ選手権(相模原ゴルフクラブ)決勝は通過し、中学時代の目標であった日本ジュニアゴルフ選手権(霞ヶ関カンツリー)に出場できました。国内ジュニアゴルファーで、40数名出れるような大会だったと思います。ジュニアゴルフの聖地、2020開催コースでもあり貴重な経験でした。


チャレンジジュニアオープンが7月だったと思います。初日84を打ってしまい下位スタートでしたが、2日目70の好スコア。中高生合わせて80人の出場でしたが、5連続バーディを経験し2日目の70は優勝者の69に続く2位という経験をします。

そして、いよいよ高校です。

かなり迷いました。小学生時代無名の選手が、複数校からお声をかけていただけると、勘違いしないはずもありませんが、本人はいたって冷静に先々を考えていました。私自身も緊張した記憶がありますが、外食中に1本の電話が入り決まります。

15歳で家を出すべきか。どうなるのか想像もつきませんが、最終的に一番に声をかけていただいた水城石井監督に預けることにしました。

「お父さん、水城にいく」

プロになる夢を抱いた15歳春。

水城高校の寮生活が始まります。


中学卒業後の春休み、予定より早く入寮が決まりました。心の準備ができていないのは私や家内です。水戸に送った後、帰りのコンビニで車を止め、本当にこれで良かったのか....自然と涙が出てきたことを覚えています。寮に預けたということは、これまでの練習や試合の送迎がなくなり、急激になんとかロスを経験します。私が(笑)


全国最多優勝校ゴルフ部。

「練習は試合のように、試合は練習のように」

全国から精鋭が集まり、プロゴルファーになる夢を叶えようと日々鍛錬します。卒業まで続く朝練と放課(校外周は毎日)後練習後に、寮の夕飯を早めに済ませて、外の練習場に自転車で向かいます。移動距離は往復6km.3年間で1万kmを自転車移動し下半身を鍛えるといいます。

横田真一プロ・片山晋呉プロ・宮本勝昌プロをはじめ、写真に写る先輩、同期の中にもツアー優勝し、活躍しているプロが大勢いますので、自分もいつか...その思いが伝統としてしっかり引き継がれているのでだと感じます。

ゴルフは主に個人競技ですが、高校生活の間に団体を経験させたい、そんな思いがありました。ただ残念ながら、夢を抱いて臨んだ高校3年間で、レギュラーに選ばれることはありませんでした。個人でも調子がふるわず...思うような成績を出せなかった生活になってしまいました。


ゴルフを辞めるかそれとも続けるか。

〈18歳高校3年生春〉

わたしは、監督に呼ばれ茨城に向かいます。進路をどうするのか。

入学前の気持ちが変わっていないかどうか、その確認のためでした。親の気持ちは変わりませんが、小学時代は、間違えなく親の気持ちが先行していた反省点があります。本人は、どのように監督に話しているのか、それをお伺いしました。

苦しい思いをしてきたのに、水城で監督や先輩方の支えの中で、自分の人生をしっかり考えるようになったようでした。見ている側は苦かったであろう3年間で、もしかしたらゴルフを辞めてしまうのではないかとよぎりますが、海里の意思は固く、引き続き夢を追いかけることを決めていました。

仙湖寮(ゴルフ部寮)

高校ではスポーツクラスでした。野球や駅伝部、空手部出身者の中にゴルフ部がいます。全国大会に出場するレギュラー陣が試合で公欠の際、教室にいることが多かったといいます。そんな辛い時期に支えてくれたのはクラスの仲間だったみたいです。みんなありがとう。



当初の目標通り日本大学ゴルフ部に入部。

「半端な気持ちで茨城に来ることを決めていない。このままじゃ終われない」、家に戻らず、静岡に行くと決めていたようです。

日本大学は、ゴルフを始めて教わったコーチとスクールメイトでもあった堀川未来夢先輩プロが在籍していた大学。聞くと中学時代から同じ大学ゴルフ部と決めていたと後で知ることができます。

親としては、「大学卒業までは応援する。」

卒後プロになりたいのであれば、「そのために必要な道は自分で切り開くこと」。引っ越し移動中の車の中で話し、静岡の寮に送ります。

自身もプロゴルファーを支える仕事についているため、この世界の厳しさは、選手たちの間近で見ています。当然華やかな面だけではないからこそ、我が子にも甘い世界ではないこと、厳しい言葉を選ぶようになります。

夢を追いかけることは、生きていく上でも大切なことで、ここまで変わらず同じ夢を追いかけられたのは、結果はどうであれ、本当に幸せなことです。苦しいといえば苦しい、でも幸せといえば幸せなこと。

大学2年冬、海里から電話が入ります。

「お父さん、話したいことがあるんだけど」

電話を切った後、心がざわついたんです。

「2年生までに日大の主力になっていないければプロは諦める」

と決めていたようで、その思いを打ち明けるのにかなり緊張した様子でした。

「プロになるならば、結果が出ない人間が何年もいる場所ではない」と幾度となく伝えていたからなのかもしれません。本当は言いたくない言葉です。

親子で追いかけた夢であることは間違えありませんが、自分の意思で新たな道をみつけ、時間をかけて考えての決断のようです。

反対する理由は一つもありません。

ここまでよく頑張りました。


11年間、親子で夢を追いかけました。

プロになったときのことを考えるとワクワクし楽しくなります。私は海里がゴルフを始める数年前に、ゴルファーのお客様を診ることになりました。

柔道整復師の仕事がゴルフに役立つならと始めたゴルファーサポートも、今では本業になりつつありますが、ゴルフトレーニング・コンディショニングが確立されていなかったこともあり、お客様に対する学びを機に、海里のゴルフトレーニングを探求することにもつながりました。

子であると同時に一人のアスリートを支える気持ちでもありました。柔道整復師である父が、子の怪我や故障から守る。


「身体を作り、とにかく怪我をさせない。」

これだけは父として、約束を守れたように思います。

2019年春。

クラブはしばらく置くようです。

「人々の心を豊かで活力あるものにするために—」

そんな企業に就職し新たな道を進むことになりました。

小学校から中学校、高校、大学まで、ティーチングプロや監督・コーチ・諸先輩方、同僚、またシューズ・クラブ・ウェアなどのメーカーの方々、クラフトマンの方にも大変お世話になりました。この場を借りて皆様に御礼申し上げます。本当にありがとうございました。


親子共々、まだまだ未熟ものございますので、今後ともさらなるご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

ご友人の方々たまにはゴルフに誘ってあげてくださいね。


「ゴルフは人生のように」

私がゴルフを選んだ一番の理由は、ショットでも緑多いゴルフ場でもなく、プレー自体が人生のように感じられることにあります。ゴルフを通して人生を切り開いてほしいとの願いでした。

いい時も悪い時もある、イケイケの時もあれば、何やってもダメな時もある。心の持ちようで変化が生まれたり、耐えた後に嬉しいバーディが来ることもある。より遠くに前にという気持ちが功を奏すこともあれば、罠にはまることもある。

Golf is a fascinating game. It has taken me nearly forty years to discover that I can't play it.

「ゴルフは素敵なゲームだ。自分がうまくプレイできないことを悟るのに、40年近くかかってしまった」

というテッド・レイの言葉がありますが、ゴルフを始めて11年では、まだまだ始まったばかりなのかもしれません。またいつでも始められます。

私はこれからも、親子にしてくれた ”ゴルフ”に感謝の意を込めて、ゴルフ業界発展の為に微力ながら、少しでも貢献できたらと考えています。

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